うみつづり

海のレシピ

Voices思い出を読む

あの日、あのときの海での出来事。
これまでに寄せられた海にまつわるエピソードをご紹介します。

小ガニと遊んでた
かぞくで砂でお城つくったり
ねてるときに砂でうめてた

靖珠(熊本県・10代)

わたしの生まれたまちはくびれたような半島のまさにくびれ部分にあったため、北に行っても港、南に行っても港、東に行けばわたしの祖父が生まれた島を遠く望む岬、文字通り地の果てなのだが、比較的内陸側に家があったので「港町うまれで海はいつも身近にあった」と書き出すほどでもない。いまは廃校になった小学校の目の前の坂道を少し下れば、高台の金刀比羅神社の境内で遊んでいると、祖父母が眠る墓地に行くと、すぐそこに海が見えた。身近にあることに間違いはない。ただ砂浜などとは違って港は港、こんがらがった漁網や乾いたブイの転がる漁師の仕事場であり、子どもの遊び場ではなかった。カニやサンマの季節になると港でカニ祭りやサンマ祭りが催されるのだが、不思議と一度も行ったことがない。父は子どものころ流氷に乗ってよく遊んだというが、わたしはたぶん流氷を見たことすらない。結局これは父の海の思い出であり、わたしの思い出ではない。

木村幾何(北海道・40代)

北海道一周中、毎日海がきれいでした。

カズヤ(大阪府・20代)

3年間の鮭の大不漁。次、不漁が来ても問題ない浜を作りたい。

知床の鮭漁師(北海道・20代)

羅臼の海は波だって、青く深くて。なぜかフランス語が飛び交っていた。あの日、きっと忘れない。

isao(東京都・60代)

どうにも疲れていた時期、北海道までフェリーで行きました。デッキで夕陽が海に沈むのを、ただただ眺めていたあの時間はその時の私に必要なものでした。

しろくま(新潟県・30代)

北海道で初めての海は、知床の冬の海でした。一面流氷に満たされた海に圧倒されっぱなし。ロシアから流れ着いた無数の氷塊を見ながら、この氷が見てきた景色を想像して、なんだかくらくらした記憶があります。

アムール(京都府・30代)

40年前の話。
結婚式の半月後、夫の札幌転勤で、東京有明埠頭からフェリーに乗って、北海道へ。人生初のフェリー旅でした。夕方、乗り込んだフェリー、翌朝は大海原を突き進んでいました。当然ですが、見渡す限りの…海。新しい暮らしへの不安と希望が入り混じった複雑な気持ちが、一気に吹き飛んだ、海の雄大さでした。

Kumiti(三重県・60代)

昔、犬の散歩コースとしてごくたまに海まで行くことがあった。
海といっても波が入ってくるのは低い岸壁の隙間だけで、私の感覚では近所の原っぱの続きでしかなかった。はじめてそこに行ったとき、走り回って疲れたおバカなうちの犬はジャポジャポと海へ入っていき止める間もなく海の水を飲んだ。「きゃんっ」と鳴いてオロオロしている姿が気の毒だけど可愛かった。馬鹿だねぇと思いつつ、こればっかりは経験してもらうしかない。以来、波際には近づかなくなった。
多分あいつは海を海とは認識せずに一生を終えたと思う。散歩コースは巨大客船のつく港になった。

波の音が好き(北海道・40代)

海に浮かぶ利尻富士
海から薫る昆布の風味
花の浮島ヤーレンソーラン礼文島

シーあーちん(新潟県・40代)

海ゴミ拾いを仲間と一緒にした。海外から流れ着いたゴミが多くて驚いた。

あっがい(北海道・40代)

子どもの頃、家族とよく海に行った。いつも両親は忙しくしていたが、海は毎年の恒例行事。私と家族を繋いでくれた海に感謝。

トモ(北海道・30代)

函館の海で、朝陽がのぼるまで友人と缶ビールを飲んで語り合った。

ケイスケ(北海道・20代)

小学生の頃、学校が終わると家にランドセルを置き、日が暮れるまで友人と海で泳いでいた。毎日のように、おばあちゃんが海まで迎えに来てくれた。海からの帰り道、おばあちゃんとのお話がすごく楽しかった。

矢田項一(北海道・40代)

今から30年ほど前、大学生の頃。バイトで貯めたお金で、北海道をヒッチハイク。行ってみたかった礼文島へのフェリーは、低気圧接近で波が高く、気持ち悪くなりそうなので、甲板にこっそり出て、しっかり体を支える。ワンピース宜しく、大海原を駆け巡る海賊のよう。爽快だった。礼文島での生活、波が収まるまで船は欠航となり、しばらく宿で待機。同じく一人旅の仲間たちと、波の音を聞きながらトランプしたり、他愛もない雑談で時は過ぎる。数日後、それぞれの旅立ち。自分は利尻島へ、仲間達は稚内へ。紙テープでの別れ。穏やかになった水面の煌めきが、涙のようだった。

あぶってかも(福岡県・50代)

上手に泳げるわけじゃない。海藻が足に絡んで気持ち悪い。北海道の海は夏でも夕暮れになると寒い。理由はいくつでも挙げられるが僕は海があまり好きではない。ただ、結婚して娘が産まれてから海に行くことが増えた。どういうわけか彼女はヨチヨチ歩きの頃から海が好きで、どんなに機嫌が悪くても「海行こうか」でニッコリした。そんなことで車で20分程度のお気に入りの海岸にはよく行っていた。そして、海辺の防波堤の上で、往復の車の中で、日頃は無口でそっけない彼女とたくさん話した。彼女はその時だけは饒舌だった。クラスでの話、妻との話、自転車でころんだけど笑えたこと、人間関係の不条理に腹を立てたこと。彼女が中心になって展開される話は、どれもとりとめがなく、直感的で、細部がぼんやりしたものばかりだったが、むしろそのことが彼女の目線を共有するしているように思えて幸せな気持ちになった。
でも彼女の年齢と反比例するように海に行く回数が減った。昨年高校を卒業した彼女と最後に海へ行ったのはいつのことだっただろうか。さみしいと言いたいわけじゃない。成長とはそういうものだと思っている。
先日、近くで仕事があったのでお気に入りの海岸へ行った。「この辺に座って話したっけな」と思い出していたら、めずらしく彼女から電話がかかってきた「部屋にテーブルほしいんだけど、お金が足りなくて…」そんなんばっかだな。と思ったが「いいよ」と即答した。ついでに「今度ご飯食べに行こうか」と言ってみたら彼女も「いいよ」と即答した。ついでに「お寿司がいい」と指定された。すっかり海に行く理由がなくなった。でも、海で思い出すことはたくさんある。

しんいちろう(北海道・40代)

通っていた高校は部室の窓から海が見える高台にありました。吹奏楽部に所属していた当時、夏休みの練習後は必ずと言っていいほど海に遊びに行ったものです。海のまちで生まれ育った私にとって「海遊び」は何も特別なものではありませんでした。でも、なぜか高校時代の部活仲間との海遊びは良い思い出としてしっかり記憶に残っています。多感な時代、仲間たちと過ごす時間に特別感を感じていたからでしょう。海から長い間離れて生活してきた私ですが、現在は海を拠点にした観光振興に携わっています。仕事への熱意の根本にあるのは、その時の記憶。
「青春」「感動」「郷愁」…そんな、海がくれるたくさんの思い出が、今の私の原動力となっています。

島の守り人(北海道・40代)

私は海に囲まれる街・函館で生まれ育ちました。休みの日はゴロゴロしていたい父が、ごくたまに気まぐれで連れて行ってくれる海釣りがたまらなく好きでした。釣りの楽しさと釣れた魚の美味しさが鮮明に記憶に残っていて、地元を離れてからも釣りが趣味の人とよく行動をともにするうち、釣り好きな夫と子宝に恵まれて、家族みんなで釣りに行くようになりました。
ただ、そこには私の父はいません。海と私をつないでくれた父は、孫が大きくなるのを待たずに、この世を去りました。父も一緒に、3世代で釣りしたかったな。
私たち家族はその後、函館に移住しました(私はUターンですが)。
「今日はこっちから風が吹いてるから、ここでなら釣りができそうだね!」
「お寿司握りたいから、釣りに行こうよ」
「今日の夜、釣りに行けそう?」
我が家ではこれが日常会話です。
今では一番上の子どもは高校生。自分1人でも釣りに行くようになりました。私が父から受け取った海とのつながりを、私から子どもたちに受け継ぐことができました。この先も脈々とつながっていきますように。そして、私は3世代で釣りができることをひっそりと期待しているのです。

海は心のいやし(北海道・40代)

イベント等で集まった、手書きのエピソードたち。
2022年に開催した『海の森、海のいま』展で寄せられた海の思い出もご紹介します。