子供の頃夏休みに母の実家に遊びに行ったら毎朝必ずと言っていいくらいイカの刺身が出てきた。海辺の集落で早朝に地引網があって、地元の朝食のためだけに行われていたような小さな規模。砂浜が続く海岸線には集落ごとに漁のための小舟と網を巻き取る素朴な機械があった。イカの他に魚の煮付けとかもあったのだろうけどよく覚えていない。何しろ当時ご馳走である刺身が朝から出てくるのだ。海に近い宿に泊まれば珍しいことではないけど、それを知るのは大人になってからだ。
今でもそんな漁が行われているところあるといいなあ。
テツめし(石川県・60代)
社会人1年目、休みの日は近所の海でずーっと波を見ていたのはいい思い出です。ボーっとする時間、大切ですよね。
のってー (青森県 ・30代)
松島に行ってお団子を食べた!
CC(宮城県・20代)
放課後、友達と通っていた海。「初日の出も一緒に見ようね」って約束したけど、そういえば“ここ”って日本海なのでは…。
まい(秋田県・10代)
私は、漁業の仕事をしています。
約10年前の大学卒業後、ふとしたご縁で繋がった約1ヶ月間のわかめ収穫や加工のアルバイト。
それがなかったら、今の私はこの土地には住んでいなかっただろうなと思います。
はじめて乗った漁船、夜から朝になっていくグラデーションの海、はじめての作業、全てが新鮮と不安さで緊張したことをよく覚えています。
今は自分で養殖をできるようになったけど、初心を忘れず、周りにいてくださる方々への感謝を忘れずに過ごしていきたい気持ちです。
ひーさん(神奈川県・30代)
マンボウがいた日本一海水浴場に近かった海駅、真っ暗なトンネルをくぐる手前の人気のない美しい海、汽船に寄りつく鴎の目的はカッパえびせん、囲碁の石のようなそれだらけの海岸、わかる人はわかるかな?
今は形を変えてしまったけど、これからもずっと私の海の原風景。
della(千葉県・40代)
海までいつもの道いつもの地点、車のウインドウを父親が必ずそこで開けた。
ワクワクする潮風の香りが、車内を優しく暖めながら吹き抜けた。
うめ(福島県・50代)
東日本大震災から数年後、陸前高田に訪れる機会があった。
鉄骨がむき出しでひっそりと佇む建造物と、団地の壁面に残る津波の跡の一本線を見て、なんとも言えない気持ちになった。それでも海はただそこにあるし、恵みももたらしてくれる存在なんだなと。自然はいろいろな感情をくれる。
MARE(大阪府・30代)
おいしそうな魚をみつけました。
紅梨(秋田県・20代)
女将は「それでも私を育てた海を愛しているよ。」と言った。(被災学習で伺った、被災した旅館の女将の言葉)
磯部理世(岩手県・20代)
クラゲに刺された。めっちゃ痛かった。
ミンムー(青森県・20代)
港でつぼを吊るしておいたら、翌日中にタコがはいっていて感動した。
谷内(秋田県・20代)
家族で海釣りしたこと。
わに(福島県・20代)
夏になると母と2人でよく釣りにでかけた。仕事で忙しい母といっぱい遊べた大好きな場所でした。
ふじこ(福島県・20代)
お盆過ぎの海水は冷たくて泳ぐのは向かないけど最近は9月まで暑いので泳げてうれしい。
佳歩(秋田県・20代)
ウミネコの繁殖地があって、鳥だらけの珍しい景色になる。
ボーズ(青森県・20代)
海の楽しさもスリルも、祖父から教わった。
体一つでテトラポッドまで行き、よくライフセーバーのお兄さんに注意されていた、そんな海の大好きな祖父が私は好きだった。カナヅチで泳げない祖母は半日海の家で待っていた。海の家で食べるしょっぱい醤油ラーメンがたまらなく好きだった。福島のいわきの海が、好きなのだ。
祖父は四国の香川県の生まれで、亡くなる前に、最後の旅行で瀬戸大橋を渡った。そのおかげで、大好きな海がもう一つ増えたのだ。
塩谷 満ちる(福島県・30代)
子どもの頃いとこと行く海水浴が毎年楽しみで、いつも夏休みの宿題の絵日記のネタにしていました。
あさこ(宮城県・40代)
実家が宮城県石巻市です。海と一緒に育ちました。東北はまだまだがんばります!!
〇〇(宮城県・50代)
子どもの頃、きれいな貝がらを集めたりイソギンチャクを触ったりして、たくさん遊び思い出ができた。
S.K(青森県・40代)
大学で所属していたボタランティアサークルの活動で、福島県の釣師浜海岸周辺で「遊海しんち」に参加した。
アイオライト(埼玉県・20代)
社会人1年目、休みの日は近所の海でずーっと波を見ていたのはいい思い出です。ボーッとする時間、大切ですよね。
のってー(青森県・30代)
一人で海岸線ドライブ!!
サイトウ(青森県・30代)
小学校低学年のころ、どうしても海に行きたくて、バスに乗れば着くと思って乗ったバスは違うバス。気がつくと客は全員降りていて自分一人、運転手の方にあのバスに乗ればいいと教えてもらい、ようやく辿り着いた海は大きかった。学校や親がめちゃくちゃ心配していたが、自分一人の大冒険。
Hajime(青森県・30代)
子どもの頃、夏休みに毎年遊びに行った田舎の海。東日本大震災では今は全く違う風景になってしまったけれど、あの時のことは今でも良い思い出。
ゆい(東京都・40代)
海のことを考えると、あの日を思い出す。あの日。
nabe(福島県・40代)
実家が漁師をしている為、夏休になると従姉弟が海に連れて行ってくれていた。姉妹、従姉弟の中でも1番小さい私は、目立って見つけやすいからと被りたくも無い赤の水泳帽子を被らせられていた。案の定、海で迷子になった事は無かった、はず。
し(福島県・20代)
溺れそうになった。しょっぱかった。
陸のうみうし(秋田県・30代)
七重浜でみんなで泳いだり、浜辺で歌ったりスイカ割りをしたことや、大きなマグロが有名な大間町で、小さな海の生物を発見したことや、大間漁港で漁師さんと船釣りしたこと。そして津軽海峡フェリーのデッキから見た海峡の風景と潮風の匂い。波の音。海は私の日常を彩る大きな存在です。
アゲごんべ(青森県・40代)
船に乗って飛んでいるカモメにかっぱえびせんをあげたこと。
楓(東京都・20代)
大きな波の音と磯の香りにびっくりして、ボーゼンと立っていた。初めて見た太平洋。初めてみたのは福島の海。同じ福島県でも山育ちなので、海の大きさにびっくりするばかりでした。
ばーばら(福島県・50代)
9歳の私の海は松川浦。早朝の砂浜には無数の蟹穴、小さなハサミたちが「こっち来い!こっち来い!」って…わくわくだったなぁ、従兄弟たちと過ごす夏休み恒例の1週間。朝陽でキラキラした静かで浅い内海に点々と岩が浮かぶその光景に幼いながらも心の蔵を揺さぶられた。
3.11、松川浦の目を疑う姿に涙が止まらなかった。震災から12年、私もそろそろ還暦を迎える。松川浦のカニたちに会いに行ってみようか…きっと砂浜で蟹穴をじーっと見つめる9歳の私に出会えるはず。
南谷素子(東京都・50代)
20年ほど前のこと。「海のパイナップル」の呼び名に惹かれ、東京でほやを口にした。うーん…頑張って飲み込んだ。どうしてこれが「海のパイナップル」って言うんやろう? ほやとはそれっきり。
年月経って出張で岩手県に通っていた時、三陸の街へ行った。夕食に入った店の人に熱く薦められ、出張仲間に押し付けるつもりで、殻付きほやを注文。一口つまむと「!!!」「口に残る嫌な思い出と全然ちがう!」。噛むと海の豊かな風味と味わいが口に優しく広がる。地産地消の言葉が頭の中を二往復した。三陸で現地のもの美味しく頂く喜びを口と胃袋で実感した時だった。
ぽちぽち(京都府・60代)
夏のショートトリップに欠かせない秋田名物「ババヘラアイス」。私の出身地の秋田県横手市は、県南部に位置する日本一広い盆地です。全国的には、旧正月に行われる祭り「かまくら(雪で作った家)」や、燻製したたくわんの「いぶりがっこ」の産地としてよく知られています。身近に海がなかったこともあり、私の海への憧れはいまだに続いているほどです。子供の頃、夏になり海水浴のシーズンになると、いつ海に行けるのかとソワソワしました。週末やお盆休みになると、家族で海に出かけるのですが、期待が高まりすぎて前日はなかなか寝付けず、朝なかなか起きられないこともしばしばでした。
当日は家族総出で車に乗り込み、眠い目をこすりながら続く山の風景を“ぼーっ”と眺めます。しばらくすると徐々に海が見え始め、急にテンションが高まり口数が多くなっていきました。海に着き、最初に感じる海の魅力は一面の砂浜から見える水平線と熱気を帯びながらも海から吹き上げる風が頬を撫でていくのが、なんとも心地がよいのです。海では、砂でお城を作ったり、ビーチボールをしたり水浴びをしたり、貝を拾ったりと海の遊びを堪能したことが今でも楽しい家族の思い出として、鮮明に甦ってきます。
佐々木倫子(秋田県・50代)
今年8月11日、福島県南相馬市の北泉海岸を訪れた。そこを初めて訪ねたのは、2012年1月21日。東日本大震災から10ヶ月ほど経過していたけど、まだまだ瓦礫がたくさんの海岸だった。そこから南相馬には何度も訪ねていて、時間がある時には北泉海岸に向かった。瓦礫がたくさんの冬の海から、夏でも人気のない海まで見てきたけど、今年はたくさんの海水浴客で賑わっていた。13回忌の夏の海の風景が、こうであって良かった。
raku(千葉県・50代)
今回撮影した浦戸諸島・桂島海水浴場は、震災前から何度も足を運び、宿泊もしたり楽しい思い出を作ってくれた特別な場所です。東日本大震災が桂島にも大きな傷を残しましたが、桂島の200人の島民が、一人も犠牲にならなかったと聞きました。当時、その知らせを聞いて安堵したのを覚えています。
初めて子供たちを連れて桂島を訪れました。塩竈からの船旅は風の匂いが心地よく、子供たちは道中ずっと喜んでいました。そして久しぶりの船着き場から海水浴場への道は、昔の景色が色あせてしまったようで、空き地が広がっていました。それでも、輝く海岸線は変わらず美しく、子供たちも私も、笑顔を浮かべて楽しいひとときを共有しました。東北に住む者として、津波の恐怖を決して忘れることはありません。しかし同時に、海がもたらす幸福や楽しみも同じくらいに大切だなと感じています。
高平大輔(福島県・40代)
娘にとって初めての海遊び。砂浜の砂がサラサラしていたり、海水を含んで重かったり、海の水が冷たかったり温かかったり、大人になってしまった親たちはすっかり忘れてしまっていた様々な小さな喜びを子どもと一緒に思い出しました。
SO(山形県・40代)
友人と2人、ロードバイクで四倉からアクアマリンまで海沿いのサイクリングロードをまったりゆったりのポタリング。誰もいない砂浜で年甲斐もなく海だー!っと叫んだ思い出。帰ってからも、靴の中の砂が取れず、こぼれる砂にその時の思い出が蘇る。
ろーら(福島県・40代)
小学校の頃、海水浴にいった時、必ず「カニ釣り」をしました。割り箸にタコ糸をつけ、裂きイカをくくりつける。静かにエサをしずめると、、、鮮やかなカニのハサミが岩陰から。つかんだ瞬間、ゆっくり引きあげてカニをゲットしたときの感動は今も焼き付いています。あの時以上、釣りで感動した事はなかったと思っています。
北嶋伸希(福井県・40代)
高校二年生の冬だったか。体調が悪くなって早退することになった。自宅が遠かったので、仕事を切り上げた親が迎えに来た。両親は夫婦で漁に出ていく夫婦船の漁師だ。その日はシラス漁かコオナゴ漁に出ていたのだろうか、、、迎えに来た母が車から降りると、長靴にヤッケ、ニット帽をかぶって魚臭かった。本当に恥ずかしかった。どんどん近づいてくる母のニット帽にはカピカピになったシラスがついていた。海を相手になりふり構わず働いてきた母にとって、すべてがちっぽけな出来事だったのかもしれない。
漁師の娘(福島県・30代)
小学生のころ、慣れた地元の海での海水浴。楽しくて、どんどん沖に進んでいき、波が生まれるぐらいの深さまでくると、私はここまでこれた自分が誇らしく、少し調子に乗っていた。
ところが、気づくと目の前には、せり立つ波が。多分実際よりも大きく感じていたかもしれない。息を飲み、体が動かなくなり、その波を超えることができず、波の割れ間に飲み込まれた。どうすることもできず、波の中をくるくると回転しながら、ただもがいた。天地がわからなくなり、死ぬかと思った。高校生ぐらいのお姉さんがくいっと手をとって「大丈夫?」と私を立ち上がらせてくれた。そこはもう膝ぐらい浅瀬だった。
ちょっと調子に乗っていた私に、突きつけられた自然の怖さ。こうやって自然との一線を体で学んだ私は本当にラッキーだと思う。絶対になめてかかってはいけない。あっけなく命を奪っていく海。でもその恵みで、私を生かしてくれることも知っている。
くぼなつ(福島県・30代)